思うこと~喜怒哀楽の感情の劣化について

かんがえる
この記事は約4分で読めます。

【喜怒哀楽の感情の劣化について】

最近、よく思うことに、
「喜怒哀楽が乏しくなったなあ」というのがあります。

家族をみていると、まあよく笑うし、騒ぐし、
いろんなことで盛り上がれるし。
興味をもって目をキラキラさせていたり、
周りのことに関心したり感動したり。

二十歳や十代半ばの息子たちはまだしも、
同い年の妻(専業主婦です)も負けず劣らず。

それに対して、自分を振り返ると、どうもほとんど無表情で、
(家族に言わせると仏頂面)
私自身も、何かに心動かされることが全然ないなあ、と。

昔、お寺からいただいて実家にかけてあったカレンダーに
このような標語がありました。(ニュアンスだけで正確には覚えていない)
「花が咲いても、風が吹いても、
 なにも感じず、気づかずにいる。
 そういう人が『この世は殺風景だ』という」
たしか、そんなのだったと思います。

その標語に触れた当時は、私もまだたぶん二十歳そこそこで、
「そういう人いるよな。すべて自分次第なんよな」
などと思ったものです。
そして、そんなことさえもわかっていない大人がいることに
驚きと軽蔑を感じたりをしていた気がします。

でも、五十歳間近になって、
あの時、若かった自分が軽蔑していたのは、もしかして今の自分では?
と、空恐ろしく感じるようになりました。

喜怒哀楽の感情が乏しくなった、と書きましたが、
もう少し正確にいうと、喜怒哀楽のうちの、
喜と楽が著しく薄れたのかもしれません。
良いことか悪いことかわかりませんが、
まだ、怒と哀は健在なようなのです。
このことを家族に話てみたところ、
「怒りと悲しみだけ、って、なんやそれ。最低やん」というのですが。
でも、それさえもなくなるのはいよいよ恐ろしいですから。

昔、年をとるとちょっとやそっとでは心が動じなくなる
と、誰かから聞いたことがあります。
いろんな経験を長年にわたって重ねてきた結果、
心も強くなるし、驚くべき事柄も経験済みになるし
いろんなことに耐性もでてくる、ということと思っていました。

いい意味ではそうなのですが、
厳しい実社会で心を病まずに生きていくためには、
上手に心の扉を閉じたり、隙間を小さくしたりして、
外の悪意から自分を守らなければならず、
そういうことにうまく対処できる身体になった結果が、
この、感性がなくなる、ということなのかもしれません。

では、これから先、どのような生き方をしていくのか?
あと十年は私も会社勤めが続きます(予定)ので、
勤め先で、いかに効率よく仕事をして成果をあげて、
しかも自らの心は病まず、ということをやっている間は、
おそらくこの状態がちょうどよいバランスなのでしょう。

しかし、やがてリタイアして、効率や成果を求め続けられなくなったとき、
もっと言えば、外部から何かを求められる状態から離れて一人になり
自分と向きあう時間が大半になったとき、
無感動、無表情の体質のままだったら、どんな生き方になるのだろう。

よく、定年退職後に何をしたらいいかわからず路頭に迷う、
という話は聞きますが、
もしかしたら恐ろしいのは、行動のありようだけではなく、
心のありようもそうなのかもしれません。

何を感じたらいいのか、自分が生きるまわりで何者の動きもない、
風も吹かない、花も咲かない、音も響かない
(実際は吹き、咲き、響いているのだけど、感じられない)
そんな状態を想像するにつけ、
それは多分、死んでいるのと同じ状態なのだろう、
と薄ら寒い予感がでてきてしまうのです。

これは非常に恐ろしい。
五十歳にさしかかった今、少しずつ心を取り戻し、
子供のころの感受性、とまではいかなくても、
毎日の身の回りの物事に、驚いたり感動したり喜んだり感傷にひたったり、
そういうものを再び身につけていくよう、
意識的に日々を過ごすことを始めよう、と思ったことであります。
(リタイアするまでは会社勤めは続くので、そこまでは、
 うまいバランスでやっていく必要はありますが。)

最初は難しいけど、
意識的に目を見開いて、わざわざほんの些細な気づきや、
大して面白くないけど少しだけ面白いものを探し、
それを心にとめる、ということをチャレンジし始めます。
心にとめる、だけではおそらく、すぐに忘れるし習慣化しないので、
これをノートなりスマホなりに小まめに書き残し、
そうやって身に着いた習慣から何かを見つけられればいいな、
と考えたりしています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました