思うこと ~危機感を煽る風習 2

かんがえる
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前回は、危機感を煽ることによって、
自然な喜びの感情を外から封じ込める、という行動について書きました。

組織の目的や活動が定まっていて、それが継続している集団に対しては
この危機感は、抑制という形で機能する、という例でした。

しかし、危機感の使い方にはもっと激しく、危険なものがあります。
扇動です。

あまりに強い危機意識は、ある種の恐怖感に近い感情をよび起こします。
人は恐怖に縛られたときには冷静な判断力を失い、
そこに救いの手(に見えるもの)が現れたときに、それにすがろうとします。
その”救いの手”が何らかの意図をもっているときには、
盲目的にそれに従ってしまう、という集団としてのリスクが生じてきます。

また、恐怖感とまでいかなくても、
危機感に盛り上げられたムードで集団行動が形成されることもあります。

外から与えられた危機意識、という刺激によって、
体内になにかの興奮物質が出て、マゾヒスティックになっているかのようです。
意識するとしないに関わらず、心地よく(?)興奮状態になり、
そして危機感に突き動かされてなにかをすることにより
自分がするべきことをまさに全力でしているという高揚感に酔うのです。

「みんな!このままではいけない!たちあがれ!」というものです。

マスコミがあおって、大衆の思想が一方向に向いてしまい、
それが不思議なほどの大きな力に発展して時に暴力行為につながったりとか、
ネットでの反応がさらなる反応を呼んで、いわゆる”炎上”の状態になり
臨界を超えたところでネットの世界にとどまりきらずに実世界にでてきて、
人の生活や生命に大きな被害を及ぼしたりする、ということが起こるのです。

歴史の中では、こうして、革命や維新が起こり、
ただし、それが世の中を良く変えた、というケースも多分にあったと思います。
政治的な構造の変革は言うまでもなく、人々の身近な生き場所においても、
硬直したものが分解され、社会が柔軟なものになった、という良い作用はあったと思います。

しかし、それは、例えば戦争などで多くのものが焼き払われたあとの
無秩序から秩序が作られ始める段階の活力に裏打ちされたものであり、
つまり、失ったものの大きさとのセットといえます。

破壊とその再生による果実を得るのに、そこまでの覚悟をもってするならよし、
そうでなければ、ただ危機感を煽るのはあまりに危険で無責任なことだと思うのです。

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